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緞通の資料

謎の緞通

とても変わった緞通を手に入れました。

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地の部分はハセ糸が無く 平織りで、

紋様部分に藍染めと草木染めの糸が

結びつけてあります。

糸は赤穂緞通よりずっと太くて堺緞通風。

色糸部分は鍋島風で長めだったのですが、

すいぶん痛んでボロボロだったので、

  全体的に赤穂緞通の技法で

鋏入れしてしまいました。

  ついでに真っ黒だったのを漂泊して2014-02-23 15.21.36.jpg

洗い上げてさっぱりとリメーク完了。

柔らかすぎて敷きものにはなりませんが、

タペストリーとしていけるかも、という事で、

工房によく来てくださるお客様に

引き取っていただきました。

  どんな風に使ってもらえるか楽しみです。

 

この緞通の産地とかご存知の方は2014-02-23 15.21.43.jpg

ぜひご連絡ください。

日本には色々な緞通が昔作られていたそうです。

無くなってしまったのが本当に残念ですね。

 

 

 

 

『銀花』休刊・・

先日、緞通をお手入れさせていただいたお客様からご連絡があって、

赤穂緞通の記事が載っている古い『銀花』を送ってくださいました。

 

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文化出版局刊

1973年夏の銀花第一四号

 

今から40年近くも前、 

その頃ただ1軒残っていた緞通場を、

取材したその記事も写真も素晴らしく、

私にとって伝え聞くだけだった光景が、

まざまざと目の前に浮かんできました。

 

 

 

 

これは資料としてぜひ紹介させていただきたいと、文化出版局に連絡したところ、

快く承諾してくださったのは嬉しかったのですが、

この春の号で銀花は休刊になったと聞いて、、残念でなりません。

隅々まで洗練された、独特の雰囲気がただよう雑誌だったのに。

「読んでいてとても居心地のよい雑誌で、届くなり家事をそっちのけで読みふけってしまう」

というのは、愛読者だった知り合いの言葉です。

 

2009年秋第百五十九号、敬愛する志村ふくみさんの特集号に

赤穂緞通も20数ページも割いて掲載してくださって、02941-09-2009.jpg

とても光栄に思ったのが鮮やかな記憶です。

その時の表紙コピーが、

「生きて、織って、老いて、ここまできた」

いつかは私もこの言葉使ってみたいなぁ、と。

 

そういえばこの号で赤穂緞通を見られて、

水害でJRが寸断されて代替バスしか、

交通手段のない倉吉から遥々日帰りで、

やってこられたお客様がいらっしゃって、

その場で小さめの緞通を買っていただいて、

とても嬉しそうに抱えて帰られた思い出があります。

 

廃刊ではなく休刊ですよね、いつか復刊しますように。

  

 

大船鉾の中国緞通

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先月、祇園祭の屏風祭りに出かけて、

大船鉾の装飾品を拝見したのですが、

前懸は立派な中国緞通でした。

 係りの方によると180年ぐらい前の品だそうな。

 これって児島なかさんが赤穂緞通を作る

きっかけになった「万暦氈」になるのかなあ。

いちど万暦氈というものを拝見したくて、

去年の祇園祭では月鉾や鶏鉾を訪ねましたが、

既にかっての装飾品は外されていて拝見できず。。

万暦氈についてはあまり資料が残ってなくて、

この大船鉾の緞通も詳しく調べたいと思いながら、

もう1ヶ月以上経ってしまいました。

誰か詳しいことをご存知の方はいないかなあ。

大船鉾のサイトはこちらです↓ 

 http://www.yaosada.com/cgi-bin/yaosada/siteup.cgi?category=4&page=0

 

赤穂緞通応援団結成

赤穂市には「みんなのまちづくり推進事業」というのがあるのです↓

http://www.city.ako.hyogo.jp/section/shimin/shimin_taiwa/minna/2008/

このたび「赤穂緞通応援団」を結成して、昨日無事審査会で合格いたしました。

地域の誇る伝統工芸品の赤穂緞通を通じて、新しいコミュニティつくりを目指します!

具体的には春夏秋冬にそれぞれ楽しいことをやるのです^_^;080608.jpg

 

夏:坂越浦会所にて赤穂の手仕事作品展

  7月23日~9月1日

  

  赤穂には手仕事品が数多くあるので、大集合。

  緞通は海を見晴らせる窓際に敷いて、

  ゆっくりと景色を楽しんでもらおうと思います。

 

秋:ひぐらし庵にてお月見会

  中秋の名月の日

 

  ひぐらし庵のあたりは灯りが無くて、夜は真っ暗ですが、

  満月の夜は灯り無しであたりがとても明るいのです。

  海から昇る名月を楽しんでもらおうと思います。

 

冬:義士祭にて柚子茶の接待

0806081.jpg  12月14日

 

  去年も花岳寺前のポケットパークで

  緞通床几と柚子茶の接待をして、

  大変好評だったので、

  今年も楽しんでもらおうと思います。

 

春:ひぐらし庵にてお花見会

  桜が満開になったら

 

  今年の工房オープンに合わせたお花見会は、とても楽しゅうございました。

  来年もやりますのでぜひお越しください!

 

というわけで、ただ今「応援団員」募集中です。

緞通や伝統工芸品に興味のある方、活動をお手伝いしてくださる方、

ご連絡をお待ちしております。

 

まさしく幻の緞通かも?!

作品展に来てくださった緞通を収集しておられる方が、

所蔵の絹らしき緞通の写真を送ってくださいました。

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←クリックで拡大

どう見ても絹に思えます。

それにどう見ても赤穂緞通に思えます。

とすると、正真正銘の幻の緞通!!

地元に残っている資料によると、

一時期は絹の緞通も作られていたそうなのです。

 

これ以外にもたくさんの緞通を所蔵されているとのことで、

さっそくお宅にお邪魔したいところですが、お住まいが東京なのです。。

なんとか暇を作って新幹線に乗らねば!

 

 

 

『赤穂緞通を尋ねて』

もう1年以上前になるのですが、

絨毯を研究されている方が、赤穂緞通加里屋工房を訪ねてこられて、

3回分のブログ記事にまとめてくださってます。

   『赤穂の手織り絨毯』
   http://caffetribe.exblog.jp/3829145/

   『赤穂緞通を尋ねて』-2
   http://caffetribe.exblog.jp/3844308/

   『赤穂緞通を尋ねて』-3
   http://caffetribe.exblog.jp/3875137/

 

作品展準備で色々事前勉強をしていて、

このブログも再読させていただきましたが、

赤穂緞通のこと、私達よりも詳しくご存知でいらっしゃいます。

遥かオリエントから大陸を通って、日本に流れ着いた緞通。

その中で「赤穂緞通がもっとも独自な発展を遂げた」

と書いてもらってちょっと自慢かも・・。

 

 

緞通織歌

鋏切れぬのと  手が鈍いので
  ネッカラ(一向に) 仕事がはかどらぬ
鋏切れたら  何の50段も
  親方してみます  昼までに
段通織り飽いた  糸持ち飽いた
  いやなこの筬  打ち飽いた
糸は切れる役  わたしゃ繋ぐ役
  機のお師匠さん  おこる役

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昔、緞通場のあった御崎地区は、海に面して開放的な土地柄で、

織り子さんは、こんな歌を唄いながら手を進めていたようです。

雨の降る日は塩田の男衆が緞通場に遊びに来て、

賑やかだった(らしい・・)

 

ちなみに、私も手が鈍いのでネッカラ仕事がはかどりませぬが、

昔の人みたいに夜明けから機にかかったとしても、

お昼までにできるのは10段ぐらいかなぁ・・。

 

最後の織り元

赤穂緞通最後の織り元は御崎の「西田緞通」

最近、作品展のために何枚もの緞通を敷き伸し作業していて、

緞通場でこの作業を担当されていた西田進一氏にお会いしたかったなあ、

とつくづく思っています。

--------------- 「赤穂民報」平成14年8月24日号より転載 ------------

赤穂緞通「最後の織り元」西田進一氏逝去

 その製造技法が赤穂市無形文化財に指定されている赤穂緞通の制作に永年携わってきた御崎の西田進一氏が今年5月1日に肺炎のため亡くなっていたことがこのほど分かった。96歳だった。

 赤穂緞通は佐賀県の鍋島、大阪府の堺と並び「日本三大緞通」として数えられる手織りじゅうたん。素材はすべて綿糸。織りから仕上げまですべて手作業で行われ、畳1帖分の大きさを織り上げるのに熟練工でも約20日間かかる。「亀甲」「雲龍」など中国や中近東の織物の流れを汲む幾何学模様のデザインで、堺に比べると落ち着いた色合い、鍋島より毛足が短いのが特色だ。

 江戸時代末期に赤穂郡中村(現中広)に住んでいた児島なかという女性が夫の三郎兵衛とともに緞通を制作したのが始まりで、明治から大正にかけて盛んに作られた。明治末期ころには皇后の御召列車の敷物として、また枢密院玉座の敷物として採用されるなど、その高い芸術性が認められ、ニューヨークやロンドンなど海外にも流通し、名実ともに日本を代表する工芸品として世界に名を馳せた。

 昭和12年ごろから綿花輸入制限などの経済統制の影響で生産中止に追い込まれたが、戦後に復興。進一氏も父の新吉氏が創業していた緞通場にならい、昭和26年に工場を開設した。

 多い時は10人ほどの織り子を雇っていた。織り元の進一氏は織られた緞通を台に貼り付け、水を打って乾かす「敷き直し(しきのし)」を担当。「製品の出来不出来は敷き直し次第」といわれ、どの緞通場も必ず織り元が受け持っていた最も重要な工程。同氏は織り上がった緞通に厳しいまなざしを向け、淡々と仕事をこなした。

 やがて日本に高度経済成長の波が訪れ、手作りのものが人々の生活から忘れられていく中、赤穂にあった緞通場も次々と廃業。昭和40年初めには同氏の緞通場が唯一残るのみとなったが、同氏は採算を度外視してでも赤穂緞通の灯を守り続けた。

 しかし、平成に入り、織り子の継承者が減り、また、素材の綿糸を染める業者や握りハサミを作る職人が亡くなるなど時代の流れには逆らえず、「もはや本物を作るのは難しい時代になった」とこぼすこともあったという。

 赤穂緞通を後世に残したいとの赤穂市や市教育委員会からの要請を受けて、平成3年に「赤穂緞通保存会」の代表に。雇っていた織り子を「織り方講習会」の講師に派遣したため、実質、工場は閉鎖し後継者の育成に協力してきた。

 進一氏の緞通場で織り子として働いていた女性の一人は「だんなはんは口数の少ない人やった。緞通場を閉鎖する時に『うちらはもう休むから、あとは織り方講習会でがんばりよ』とやさしく送り出してくれました...」と声を詰まらせた。

 長男の妻で坂越小学校長の西田美恵子さんは「無口で気骨のある明治男の典型のような人でした。『もう思い残すことはない。わしが残せるのは図案と、作った現物だけや』と口にしていました」と回想する。特に敷き直しの技法については同氏が最後の習得者だったため、これまで保持されてきた技術は同氏の死去により失われたことになる。

 花が好きで、自宅横の畑には野菜は一切作らず、花ばかりを植えた。「花の命は1日限り」と、玄関先の生け花は毎朝、自分でいけかえていたという。

 「家族だけで見送ってほしい」という故人の遺志を尊重し、葬儀は家族と故人の兄弟だけで行われた。花とともに愛した赤穂緞通への思いと誇りを胸に、伝統工芸の保存に懸けた生涯を静かに閉じた。